ジャーナリスト Kei Nakajima

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2004年10月17日号「Yomiuri Weekly」(読売新聞社発行)
p.52〜54  台湾の顔にして児童文学者が日本で故郷を思った33年

台湾の顔にして児童文学者が日本で故郷を思った33年
特筆記事

 夜の成田空港。台北から飛来した中華航空最終便が到着すると機内から上品な老夫婦が降りてきた。今年7月、台湾の在日交流窓口、「台北駐日経済文化代表処」の新代表、つまり事実上の駐日大使に就任したばかりの許世楷と盧千恵である。それまでの盧の静かだった日常生活は一変した。来日したその足で都内のホテルに直行し、6月末に山梨県で殺害された台湾人女子大生の遺族にお悔みを述べた。休む間もなく大阪、福岡などの華僑団体へ挨拶まわりに行脚する日々。7月だけでも数十のイベントに列席した。日本の政財界人や台湾関係者との会食も毎日のように続いた。夫が多忙なときには盧がひとりでホスト役を務める場面も少なくない。台湾は日本との正式な国交がなく、政治的には難しい関係にある。だが、経済面では台湾の最大輸入国は日本であり、毎年それぞれ100万人が行き来する。盧が担う「大使夫人」としての責務は重い。その盧は、もうひとつの顔を持っている。日台で活躍する児童文学者としての顔だ。

 1975年に日本語で書いた台湾の民話集「呉鳳さま」(こぐま社)を始め、台湾で出版した「台湾人の歴史童話」、「物語のある世界人権宣言」などいくつもの作品がある。民話や伝説を現代的な表現の話に作り上げる再話や創作、翻訳ものが中心だ。実は、彼女はこれまでの生涯のほぼ半分の時間を日本で過ごしている。最初の来日は半世紀前にさかのぼる55年11月29日。19歳のときだった。資産家だった盧の家庭では、男の子ならアメリカへ、女の子なら日本へ留学させるのが習わしだった。「日本は寒かろう」と母が持たせてくれた厚手のセーターをいっぱい着込んで、頼りなく揺れるプロペラ機に乗って来日した。戦後まだ10年目のことだ。「柳行李が空港でバラバラになって困っていたら係官が手を貸してくれてね。『お嬢さん、留学にきたの?がんばりなさいね』と声をかけてくれた。心底ほっとしたのを覚えています」国際基督教大学で英文学を学んだ後、東京大学に留学していた同じ台湾人の許世楷と結婚した。この許との結婚が盧の運命を大きく変えることに―。

 許が台湾独立運動に参加していたことで、当時の国民党政権のブラックリストに載り、帰国できなくなってしまったのだ。戒厳令下の台湾に帰国すれば「反逆罪」。無期懲役か死刑のおそれもある。2人のパスポートは没収されてしまった。幸い、特別在留資格を受けて生活していたが、ある日、大事件が起こった。許が津田塾大学の助教授だった69年、突然、在留資格の更新ができなくなり、国外退去命令が出たのだ。「本当に胸のつぶれる思いでした。あらゆるつてをたどりましたが、申請は却下。友人の作家、坂田寛夫さんは『ゆみちゃん(娘)とひろくん(息子)は僕が責任を持って預かる。君たちは早く逃げなさい』とまで言ってくださいました」

 日本滞在の期限があと1週間と迫ったとき、救いの手が差し伸べられた。東京大学名誉教授の我妻栄が岸信介に直談判し、日本にとどまれるように掛け合ってくれたのだ。当時、日本国内には刑期を終えた台湾人麻薬犯がいたが、台湾当局は引き取りを拒んでいた。台湾は、独立運動家と一緒なら麻薬犯を引き取るという条件を日本政府と極秘裏に交わし、盧たちを帰国させようとしていた。「我妻先生が助けてくれなかったら、どうなっていたか」と述懐するが、許の来日から数えて33年間、2人は東京に住むことになる。許は津田塾大学の教員となり、盧のほうは主婦業と子育ての傍ら、絵本を書いたり、人権活動をしたり。そして、台湾独立のための組織が発行している雑誌に記事を書くうちに、歳月は流れた。

 ようやく2人の帰国が叶ったのは、李登輝政権になった92年のことだ。民主化した台湾ではかつて禁止されていた台湾語の会話も自由にでき、政府の批判もできる。豊かになった故郷をまぶしく思った。台湾に腰を落ち着け、「そろそろ人生の整理を始めようか」と夫婦で話し合っていたとき、「民間からの駐日代表」という白羽の矢が立った。「余生を送ろうと思っていた私たちに、国がこのような責務を担わせようとしている。この年で台湾と日本のお役に立てるのなら、ありがたいことだと感謝しました」それにしても、と盧は思う。「不思議ですね。かつて大使館は私たちと捕まえようとしていた怖いところ。それが30年後に代表になって、その中に住んでいるのですから(笑)」8月21日、日本国際飢餓対策機構の講演会では、台湾で出版したばかりの絵本を在日台湾人や日本の友人たちに紹介した。「以前、日本に住んでいたとき、多くの人権活動家が台湾のことを思って支援してくれました。世界には飢餓に苦しむ子供がいることもこの絵本で知ってほしい。私は日本のすばらしい絵本を台湾に紹介し、また台湾の絵本も 日本に紹介していきたいと思っています」盧の希望通り、今年末には新しく発掘した民話や物語を再構成し、台湾で出版する。来年にはその日本語版も出す予定だ。

 盧には2つの夢がある。それは代表処を在日台湾人にとって怖いところではなく、24時間駆け込み、相談できる「救いの場」にすることだ。そして、台湾と日本の文化交流をもっと広めていくことである。「台湾の子供は日本の桃太郎や一寸法師を知っていますが、日本の子供は台湾の物語を知らないでしょう。台湾の原住民の間には、本当にすてきな物語がたくさんあるんですよ。それを日本に伝えたい。1つ、2つではなく、いつか「台湾の物語、いくつ知ってる?」っていう会話が日本人とできたら、どんなにすてきでしょう」うれしいことに、ここ数年、台湾の大学では日本語学科が次々と新設されている。日本との絆を太くしようとした李登輝の残した遺産だ。日本統治時代に日本語を話した世代のともし火が細くなっていく一方で、盧が願う台日双方の若葉は勢いよく芽を伸ばそうとしている。そう、49年前、柳行李を両手に抱えてやってきた、あの初々しい少女のように。


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